2023年1月1日
私は今68歳です。あと何年生きられるだろうか。
90歳までだとすると、あと22年です。
22年後の自分はどうなっているのか、世界は、日本はどうなっているのか。
“68歳の夢”として22年後の世界を見てみたい。
そして、自分の生き様をブログとホームページで“アイデンティティ”として表現し、手にした高度のツールで世界の人たちと垣根を越えてコミュニケーションするという楽しみを味わいたいです。
自分の“アバター”を通して世界中の街並みを歩きながら、買い物をしたり、ゲームをしたり、リアルな自然の画像と遜色ない世界を見てみたいです。
それは距離と言語の垣根がないコミュニケーションができる世界です。
政治の世界では自由に往来ができる民主主義国家の集合体で在ってほしいと願います。
自由競争のもと、国家としての個性(アイデンティティー)は必ずしもひとつの集合体とはならず、磨かれたものになっていることでしょう。そんな世界を見るのが楽しみです。
たとえ“アバター”を通してでも世界旅行が楽しみなのはそこにあります。
世界レベルの経済成長は、人類の夢の実現に向けての原動力ですから、先進国でも新興国でも武力競争(戦争)という手段を用いず切磋琢磨し合いながら成長していると願いたいものです。
私の夢を実現させてくれるツール作りの産業が基幹産業に支えられて成長しての話ですが、、、
そのツールを使いこなせているように残りの22年間、楽しみとしてブログを更新していきたいと思います。ツールの進化を追いかけるのも楽しみです。
22年後までよろしくお願いいたします。
■ プロフィール公開について
このブログでは今まで私のプロフィールを公開してきませんでした。つまり、誰がこのブログを書いているのか知らないまま閲覧いただいていました。
それは私の経歴や素性を明らかにする必要が無かったからです。
70歳で会社勤務が終了しようとしたときに、“68歳の夢”の早期の実現のためにも会社を設立してみようと思いました。
そして、このブログでの投稿ページの“会社をつくる”は、会社をつくるまでのプロセスを包み隠さず、私のアイデンティティとして公開して行こうと決めました。
読者の皆さんからコメントを頂いたり、公開しない問い合わせや商談メールを頂いたりするにはどうしてもプロフィール公開が必要となりました。
そのため、このブログにお問い合わせフォームを設置し、固定ページのプライバシーポリシーの中でお問い合わせフォーム・コメント機能の免責事項や著作権・肖像権といったところを明記するようにして、以下にプロフィール公開をすることにいたします。
■ プロフィール
前置き:
ここでの私のプロフィールは、会社を設立するにあたって賛同して頂ける読者に対して、スタートアップと言える会社を一緒に育てて頂くために公開するものです。
ですから、投稿記事“会社をつくる(その1~)”では会社設立のプロセスをすべて公開します。まだ構想段階ですが、準備が整いましたら、ビジネスとしての商談やパートナーとしての参加をお待ちしています。末尾にお問い合わせ窓口を用意しています。そこでコメント頂いた内容は非公開です。意に沿えない部分があるかも知れませんが、何卒よろしくお願いいたします。
以下、散文的になりますが、ご容赦ください。
本題:
私の名前は両角裕幸、ハンドルネームは68dreamです。出身地は長野県北佐久郡立科町茂田井で中山道の風情のある町並みが残っています。結婚して40年以上はそこから少し離れた小諸市に住んでいます。小諸といえば島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」の詩歌をご存知の方も多いかと思いますが、詩情あふれる高原の城下町です。そんな田舎育ちですが、大学は東京の調布市にある電気通信大学を卒業しました。
これからはエピソードを交えて紹介します。
大学の学科は材料科学科です。この学科を創設したのは藍原教授と伺っていましたが、卒研では教授に薦められて研究テーマとして核磁気共鳴(NMR)装置での水素結合の研究をしました。卒業までに論文を間に合わせようと深夜までデータ取りをし、論文発表はしたものの提出レポートとしては間に合いませんでした。中途半端な状態で卒業してしまったのですが、卒業後の会社勤めの最初に関連会社への出向が決まり、出向先のアパートでその続きを行い、卒研論文を完成させました。研究テーマとは直接は関係ないですが、このNMRの原理を応用したNMRイメージングは、磁気共鳴画像(MRI)として画像診断に欠かせないものになっています。
会社勤めの最初の出向先は日本ミニコンピュータシステムという会社で、日本電子(JEOL)からスピンアウトしてきたエンジニアにコンピュータ技術を基礎から教えて頂きました。マイコンの黎明期でもあり、インテル8080のプログラムをテレタイプで入力していました。当時、デジタルリサーチ社のCP/MというフロッピーディスクベースのOSを搭載したシステムの先駆けの技術に触れることができ、室蘭工業大学にシステム納入のお手伝いもしました。
2年後、本社(三映電子工業)に戻り、研究開発室に所属となりました。この研究開発室から現在のシステム開発部まで同じ所属部署で実に45年が経ちました。
その間にはさまざまな経験をさせていただきました。それは新しい有望な事業分野を開拓していくことが使命であったから経験できたことです。間接部門ではなかったので、人員が増えれば利益確保に奔走することになるのは現在でも変わりません。
会社勤めを回想する中で私にとっての大切な出会い(人脈?)を紹介いたします。
1.日本電気(NEC)府中事業所のF氏
ESDIテスタをHDD検査設備担当のF氏からの要求仕様に基づき作成し、納入しました。z80マイコンを使い、ステートのHALTを利用して1μsの精度で制御信号を発生させることができ、評価頂きました。その後、設備の増産に伴い定常的にHDDの検査設備を納入するようになりました。当時、パソコンではNECのPC-9801シリーズが国内独占状態でした。F氏は後に当社の社員となりました。
2.エプソン富士見事業所のK氏
エプソンマイコン、ASICのIC設計の業務で大変お世話になりました。当社との取引では仲介取引から直接取引に変更していただきました。K氏はサイミックスという会社を設立し、当社はそのベンチャー企業とも取引するようになりました。K氏の会社を設立するというダイナミズムに感動し、会社をつくる構想を練ったことがありました。
3.住友商事のM氏
NECとのHDD検査設備の取引が少なくなり始めた頃、パソコンの周辺機器の開発を企画したときに販売協力のお願いに伺いました。当時ノートPCのスロットに挿入して機能拡張させるPCカードが出始めていました。三菱商事では海外製のものを含めてPCカードをインターフェースという技術雑誌で紹介していました。デスクトップPCでもPCカードが使える周辺機器の開発に着手し、販売は当社住友系列の住友商事ということでM氏に相談しました。快く応じて頂き情報も頂きました。この時に失敗に懲りず、第2弾、第3弾と製品開発を行って、成功すれば今のバッファローやアイ・オー・データのような会社になっていたかも知れません。大きなリスクがらみの挑戦ですから、当社の体質には合わなく再挑戦するまでもなかったです。
4.山形大学のH氏
現在は北海道大学の教授と伺っていますが、山形大学に在籍していたころ、NEDOの助成による“腫瘍の酸素分圧測定”のプロジェクトに参加させていただきました。癌の放射線治療をターゲットとした医療機器の分野で将来性のある新たな分野に参入していけるのか、投資していけるのかは私が判断できるようなテーマでは無かったと記憶しています。大学の卒研テーマと多少は関連があり、興味がありましたが、短期的な結果を求められる立場でもあり、継続は断念しました。H氏の探究心と思考力には感動するものがありました。手足の部分の機械化はロボット工学ですが、感情の源泉となる脳の部分を機械化するという学術があるのか伺いたいです。
5.日本電気(NEC)府中事業所のI氏
NECとのHDD検査設備の取引が少なくなったころ、NECのI氏がHDD技術サービスという社内ベンチャーの新規事業を企画し、当社が代理店窓口という形態でスタートしました。HDD信頼性評価や障害解析等のサービスを事業としていますが、調査・解析に使用するテスタは当社が担当です。今までテスタ販売しか切り口が無かった当社にとっては渡りに船といったところでしょうか。I氏からサービスの極意を教わりました。I氏も後に当社の社員となりました。
追伸:
最後に出会いの機会を提供して頂いた営業担当のK氏には感謝申し上げます。
高校の先輩でもあり、今年学校創立100周年記念でお会いできたらうれしいです。
以下、お問い合わせ窓口の案内です。
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下記お問い合わせフォームにてコメントとしていただければありがたいです。コメント内容は公開いたしません。