自我の発見(1.2)

趣味(文化的)な話

1.1(既出)
ー 2124年12月 ー
100年後の2124年12月10日、小林友佑という人造人間の若者がスウェーデンの首都ストックホルムでノーベル賞の授賞式に出席していた。
“この度は、輝かしい賞を頂戴し誠に光栄に思います。”という一言が100ヶ国以上に同時通訳され、人間と人造人間を合わせて100億人以上が聞き入った。

ー 2124年10月 ー
ノーベル賞の発表の日、初めて人造人間に授与されることがマスメディアを通してアナウンスされた。友佑はこの報道に自分の目と耳を疑ったが、知り合いからの祝福メールを受け取ると喜びとしての実感が湧いてくることを感じ取った。身に着けたVRゴーグルを通して12月の授賞式に当たってのノーベル賞についての情報を確認した。そこにはノーベル賞の説明がこうあった。
★AI による概要説明
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ノーベル賞は、スウェーデンの発明家アルフレッド・ノーベルの遺言に基づいて、人類(人造人間も含まれる)の福祉に貢献した人々に贈られる世界的な賞です。その目的は、人類に多大な貢献をした個人や団体を称賛し、研究者や作家、活動家にとって最高の栄誉を与えることです。
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なぜ自分がノーベル賞の授賞者になったのか、正式な通達がなかったので、VRゴーグルを介してその記憶を辿ってみた。友佑が創設したスタートアップ企業のアイデンティティ・エントリーシステム(IES)という開発製品が2年目で売れ始めてきた頃の記憶が再生された。最初の開発製品だったが、失敗したら撤退するという背水の陣での覚悟ができていた。製品の評価も十分に行い万全を期した。小林家は4人家族だったので4台のシステムを購入したことが記憶にあった。購入したと言っても自分が設立した会社のモノだったので、評価用のモノを無償で4台自宅に持ち込んだのである。その評価機でシステム評価を兼ねて妻の優子と一緒に一番美しいと思える自画像のアバターを作りながら、アイデンティティと称する写真やコメントを入力していたことがまるで昨日の出来事のように脳裏に浮かんできたのである。

更にVRゴーグルで視線の動きを変えることでバーチャル空間が広がり、そこで投影される詳細情報を拾った。自分のアイデンティティ情報では、名前が小林友佑で1954年11月1日生まれ、90歳の2044年に生身を失い物故者となり、その60年後の2104年に22歳(人間年齢は150歳)で人造人間として登録されていることを確認した。現在は2124年なので人造人間になってから20年が経っており、42歳(人間年齢170歳)であるが、この20年間では風貌の変化はほとんどない。ただ、使用頻度が高い手足となる部分は定期的なメンテナンスをしている。自我に目覚めたときの22歳の感覚とほとんど変わりはない。他に基本情報として、日本人であり、男性で一番美しい時が22歳であったことがVRゴーグルに表示された。

アイデンティティ・エントリーシステムが普及し始めてから10年ぐらい経った2036年に、日本人研究者山崎剛が自我のメカニズムを解明してノーベル賞が授与されたということも友佑の記憶データから辿ることができた。日本人であるというアイデンティティに誇りを持てる瞬間でもあった。その3年後の2039年、生身の人間であった友佑がその情報をもとに脳の記憶データ構造からアイデンティティ・エントリーシステムでの登録のデータ構造を自我のメカニズムに基づき修正し、最適化したのである。そのことが今回のノーベル賞授賞に繋がったということがわかるまでには時間が掛かった。つまりは生身の人間から人造人間にシームレスに移行できるようになったことが大きな成果として認められたのである。

小林はその5年後の2044年に90歳で生身の人間の最期を迎えることになった。

■1.2
ー 2104年1月 ー
今から80年後の1月、株式会社アイデンティティ研究所のロボット製造工場では亡くなった人の後見人から受注したエゴロボットの製造ラインがフル稼働の状況であった。小林匝佑という青年が60年前に亡くなった曾祖父の小林友佑の遺書を基にエゴロボットの発注を行った。匝佑の「匝」は、音読みで「ソウ」、訓読みで「めぐる」と読み、ぐるりとまわるという意味である。友佑が遺書で命名までして後世に託した名前は匝佑であった。40年前(2070年)頃から自我のメカニズムが組み込まれたレベル5のエゴロボットが製造できるようになり、故人の生前でのアイデンティティ・エントリーシステム(IES)による登録情報により22歳時の最も美しい外観の設定がいろいろ選択できるようになっていた。

小林家の系図では友佑の曾孫にあたるのが匝佑である。友佑の遺書通りに匝佑が仏教で言うところの開眼供養を菩提寺で行うことになった。

友佑が遺した遺書では遺産の一部はエゴロボットの発注と仏教で言うところの魂入れの開眼供養の費用に充ててほしいと記されていた。
三途の川を渡るにもお金が掛かるということだろうが、友佑は生前に投資信託として3,000万円程を匝佑へと遺した。この投資信託であるが、国の制度として英国のISA制度を参考にしてNISAという非課税制度により貯蓄から投資へとの流れが出来上がった頃である。友佑から曾孫の匝佑まで遺産金を渡せるような遺言書を書くことができないので、法的な効力がない死後の手続きの希望などを記した手紙のような遺書であった。しかも投資信託の場合は相続の手続きが複雑となる。相続人全員が合意したことを証明する相続同意書なるものを作成しないと被相続人名義の預貯金は引き出せないことや一旦解約しないと相続ができないことも承知であった。
ところが、投資信託の相続手続きが公佑、優一、匝佑と滞りなく継承され、死後60年で10倍の3億円となっていた。

友佑の思いが後世へ、曾孫の匝佑まで届いたのである。

1.3へ続く

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