10月5日、母校の創立100周年記念式典兼森山良子コンサートに行ってきました。
会場は4年前に竣工した長野県立武道館で、生徒や卒業生らで千人ほどが出席しました。
会場に着いて感激したことは、式典の会場では生徒たちが入場手続きから会場案内まで笑顔で応対してくれたことです。その後の式典の進行も生徒たちでした。
私が大学生のとき、教育実習で母校に行き、数学の授業を担当したときのことを思い出しました。難しい対数のところで自分の拙い教え方で理解してもらえたのかと心配でした。帰りがけに古びた校舎の2階窓から数人の女生徒が“先生”と言って手を振ってくれたことを今でも鮮明に覚えています。教え方はどうあれ、母校の生徒たちは私を“先生”、“先輩”として迎い入れてくれたと、勝手な解釈ですが、あの時はとっても嬉しかったです。
式典兼コンサートでは吹奏楽部と楽団による森山良子さんとのコラボでの“聖者の行進”は大盛り上がりでした。私の通っていた頃の吹奏楽班のDNAはずっと引き継がれてきたのかと感激の連続でした。また、そこでは76歳という年齢での森山良子さんの声量にはびっくりしました。同窓生との縁があっての出演だと思いますが、生徒たちとの阿吽の呼吸が同窓生そのものの様でした。演劇班の生徒たちが“明日にかける橋”の翻訳歌詞を朗読した後のしんみりとした歌唱も心に響きました。
会場を後にするとき、“私のプロフィール”の中のお世話になった先輩K氏に会えることができてとても嬉しかったです。
実は、前日、母校の近くのこんどうという居酒屋で“3年A組”の同級会が行われました。50名のクラスで物故者や住所不明の人もいる中で、17名が70歳の古希に集まりました。コロナでしばらく中止していた同級会が幹事さんのお陰で再開できて嬉しかったです。一人ひとり近況を報告するときに、私は、コロナに罹った時に“68歳の夢”というブログを立ち上げたことを話しました。学生の時から写真が好きで今でもその道を歩んでいるY君が、巨人・大鵬・卵焼きの時代を象徴する王、長嶋の貴重な近接写真をじゃんけんで譲る場面もありました。53年前の“3年A組”にタイムスリップしたような気持になりました。
さて、“岩村田高校卒というアイデンティティ”の本題ですが、この“アイデンティティ“を日本語にしようとしても当てはまる訳語がないので、まずは具体的に私が入学した頃からを振り返りながらお話ししたいと思います。
中学3年生で、受験高校は上田高校を目指していました。小学生の頃からの記憶で“松尾高校”という校名で地元では一番の進学校でした。小学校からの友達二人は入学しましたが、私は国語と社会が苦手で受験に失敗したら中学浪人ということもあったので、ぎりぎりで受験校を変え、先生に薦められた佐久地方の野沢北高校ではなく、岩村田高校に入学しました。岩村田高校は当時、普通科と工業科の機械科・電気科がありましたが、普通科を受験し、A組に入りました。
A組の学級委員を決めるとき、中学浪人を経験したT君がまさにその役割に適していると私が感じるように、みんなも同じようで、即決となりました。以後、皆から“組長”と呼ばれるようになりました。組長は制服自由化など生徒ファーストを主導し、皆も賛同していたと記憶しています。新学期が始まって間もない頃、昼休みに応援団が来て教室を取り囲むようにして、“弁当しまえ”で雰囲気が一変しました。応援歌を大声で一緒に歌ったことを覚えています。当時は高校野球で佐久長聖高校のような強豪がなかったので、準決勝あたりまで勝ち抜くことができ、応援にも熱が入っていました。その時の学生歌が“大浅岳”です。最初の洗礼でした。
バス通学ではありましたが、かまやつひろしさんの“我が良き友よ”の歌詞にあるように“下駄を鳴らして奴が来る 腰に手ぬぐいぶらさげて・・・”のように、いつしか下駄で通学するようになりました。元衆議院議員のT氏は1年先輩で同じバス通学でした。確か下駄だったかな?。1時間ぐらいの通学時間でしたが、試験勉強をしたり、3校(岩村田、佐久、北農)が乗車する女子学生に思いを募らせたりで、懐かしい思い出ばかりです。
卒業する年になると、班活から受験勉強に専念するようになりますが、ほとんどが進学を希望し受験戦争に突入していきました。私は1年間、新宿予備校というところにお世話になりました。U君とは一緒の下宿で、近くにある銭湯でも偶然、戦友のI君と出会いました。今は個人情報の扱いに“プライバシーポリシー”が徹底していて情報を得ることが難しくなりましたが、当時の“3年A組”の進学校を同窓会員名簿から知ったとき、国立公立大学、有名私立大学の合格率では恐らく単クラスとしては進学校の野沢北高校を凌ぐレベルだったのではないかと思いました。一方、野沢北高校出身の新海監督や由井宇宙飛行士のように佐久地方出身者がマスメディアに登場するのは誇らしい思いです。因みに由井宇宙飛行士の義理の兄は同級生のS君です。
1973年(昭和48年)卒業から43年が経った平成28年9月に担任の大塚先生に出席いただいて同級会を開催しました。幹事のH君からの案内で18名が出席しました。先生はその後、1週間ぐらいで体調を崩され他界されました。その年の10月の日付で奥様からご丁寧なお礼の封筒が届きました。大塚先生が担任だったから生徒ファーストで“3年A組”はまとまりのあるクラスだったことを改めて噛み締めました。
翌年の10月、同級生(Yさん・旧姓H)が経営するカフェ(DAWN)で同級会が開催され、22名が出席しました。お店を貸し切りにして盛大に行われました。その2次会ではカラオケに行きました。Nさんからスピッツの“チェリー“がリクエストされ、私にマイクが向けられたのですが、うまく歌えませんでした。“愛してる”の響きだけで強くなれる気がしたよ いつかまたこの場所で君とめぐり会いたい という歌詞がとても素敵だったので、家に帰ってから“スマホでカラオケ”をして練習を重ねました。次回の同級会にはリベンジとばかりに楽しみにしていましたが、新型コロナによって5年間はお預けとなりました。
カラオケの最後には、母校の学生歌である“大浅岳”を大合唱しました。隣のカラオケルームにも響き渡るような大声で。
“大浅岳”のように燃えたぎるような大志は秘かに持ち続けていましたが、今までの人生を振り返り、その実現ができなかったことへの焦燥感は今でも残っています。
“アイデンティティ”とは
★AI による概要(google検索2024/10/6)
アイデンティティとは、自分が自分であること、またその自分が他者や社会から認められているという感覚を意味します。日本語では「自我同一性」とも呼ばれ、「存在証明」と訳すこともあります。
アイデンティティは、個人の価値観や信念、行動パターン、社会的役割などを包括する概念です。時間の経過や環境の変化にもかかわらず、比較的安定した自己像を維持する機能を持っています。
アイデンティティは、人間の成長過程において人格形成と密接に関連しています。幼少期から青年期を中心に、自己理解や自己認識を深める中でアイデンティティを構築し、人格形成に大きな影響を与えます。
私は70歳を迎えようとしたとき、その焦燥感を埋め合わせるため、“私の終活”としてアイデンティティを電子データにして遺せるシステムを開発する“会社をつくってみよう”と考えました。今までお話しして来たような情報を画像やテキスト文章にして、自分のアバターの情報として、コンピュータの外部記憶装置に収納するソフトウェアを開発して販売する会社です。つまり、自分が他界しても生き様は後世に電子データとして遺せるツールを開発してみようと思いました。
“岩村田高校卒というアイデンティティ”の本題からはずいぶん飛躍をしてしまいましたが、読者の皆さん、乞うご期待ください。会社をつくる夢を実現できるかは保証の限りではありませんが。
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